写真の男はフランス人ジョセフ・ギヨタン(Joseph Guillotin;1738-1814)。英語名にするとジョセフ・ギロチン(Joseph Guillotine)となる。
1792年9月21日、資本家/ブルジョアジー革命(フランス革命;1789-1795)によってフランス立法議会に代わる国民公会の初会合で王政廃止が宣言され、千数百年続いた王政は廃止され、フランスは王家に代わって有力ブルジョアジー(金持ち資本家)が支配する国に変わった。
アメリカ合衆国憲法が制定された年でありペリー来航の58年前である。
ロスチャイルドを中心とした資本権力集団は、イギリス王家の手が届かないアメリカに活動拠点を築くと同時に自由平等のプロパガンダの旗の下、大国フランスの王家を滅ぼした。フランスマネー主義の始まりであり、この時から王家に代わってパリ-ロスチャイルド家が金融王として鎮座している。
1775年 アメリカ独立戦争勃発
1776年 アメリカ独立宣言
1783年 パリ条約・アメリカ独立戦争終結
1789年 アメリカ合衆国憲法制定
フランス革命勃発
1791年 第一合衆国銀行創設
1793年 1月ルイ16世処刑・10月マリーアントワネット処刑
1795年 フランス革命終結
1853年 ペリー来航
1867年 大政奉還
話をギロチンに戻そう。
1793年1月15日、前年12月から始まった国王ルイ16世の裁判の審理を終えたとして票決が行われた。結果は361対360の1票差で死刑に決まったのである。めちゃくちゃである。目的のためなら手段は選ばないロスチャイルド。どんなことをしてもフランス王家を滅ぼしたいというロスチャイルドの利己的殺人である。
1793年1月21日、ルイ16世、革命広場(現コンコルド広場)で処刑。1793年10月16日、マリー・アントワネット処刑。
一票差で国王と王妃を殺害したフランス人。フランスの堕落はここから始まった。
さて、生まれた時代が悪かったお二人はギロチン断頭機によって処刑された。
このギロチン断頭機がフランスで始めて使用されたのは1792年。つまり、お二人が処刑される前年からだった。
1789年、パリ選出の議会議員になったジョセフ・ギロチンは立法議会に対して、当時の処刑方法の改善を提案した。
当時、斬首刑と絞首刑が主な処刑方法であり、苦痛時間が短いと考えられていたのが斬首刑。貴族には斬首刑。平民には絞首刑が通常だった。
ギロチンは、人道的に、貴族、平民の区別なく、処刑は、苦痛が少ない斬首刑に統一するように立法議会に提案しようとしたが、斬首執行人シャルル=アンリ・サンソンは、斬首の難しさを説き、うまく斬れない場合にはひどい苦痛を与えることになると主張。ギロチンは、人が斬首するのではなく斬首機による処刑を提案することになった。
そして、完成した「人道的斬首機」???は、提案者の名を取り「ギロチン」と呼ばれて1792年から斬首刑に使われた。自分が提案したとはいえ、斬首機の呼称に使われるのは耐え難かったようで、後日、ギロチンは改名したという。
苦痛を感ずる間もなく絶命するとはいえ、腕の良い斬首執行人が不要になり効率的斬首が可能になった結果、フランス革命による斬首の数は急増することになった。
人道的斬首機ギロチンで処刑されたルイ16世とマリーアントワネット。この二人の処刑は人道的だったのかい?拙者には外道の所業としか思えないのである。
ギロチン導入以前のフランスには約160人の斬首執行人と約3400人の助手がいたが、導入後は減り1870年になると斬首執行人1人と助手5人ですべての処刑を行ったという。
その効率ゆえか、フランスでは1977年までギロチンによる斬首刑が続いたと記録されている。
「邪魔者をどうやって効率的に抹殺するか」
国際金融資本権力集団の時代のテーマである。
ギロチンの提案によって実現した「斬首の効率化」
彼らの目下の課題は「人類間引きの効率化」である。